角倉了以の像が嵐山に立つ! 京都の河川事業に私財まで投じた豪商の生き様とは

角倉了以(すみのくらりょうい)と聞いてどんなイメージをお持ちになります?

京都在住であれば即答できる人も多い、この問い。
彼は戦国~江戸時代にかけて大きく発展した豪商であり、同時に京都の河川事業を手がけた人物でもあります。

大堰川(おおいがわ・桂川の上流)に鴨川、高瀬川。
今なお知られる洛中洛外の河川に、ときに私財を投じてまで治水事業にその身を費やしたのですから、それはもう京都の街、人にとっては称賛しかないでしょう。

では彼はどんな人生を過ごし、工事に没頭したのか?

その生涯を追ってみます。

 

朱印船貿易で莫大な利益をあげ

了以の生まれた角倉家は「医業で成功して土倉を始めた」という、なかなか特徴的な経緯を持った家です。

国も時代も違いますが、イタリアのメディチ家とちょっと似てますかね。
ただ、メディチ家ほどの権力欲はなかったようで。

了以は16歳で結婚し、18歳で家業を継ぐと、しばらくは妻の父(義父)・角倉栄可に主導権を握られていました。

実は、妻の実家が角倉家の本家で、了以の実父は吉田宗桂と言います。
結婚から間もなく跡取り息子に恵まれたので、了以の立場も悪くはなかったでしょう。

義父・栄可は、豊臣政権との結びつきを強く持っていましたが、了以への代替わりを機に江戸幕府と協調していくことになりました。

慶長八年(1603年)からは、幕府の命で安南国(ベトナム)との貿易を開始し、おおむねwin-winの関係を築いています。
いわゆる朱印船貿易というやつで武器や硫黄、薬、書籍などを取り扱い、莫大な利益を築きました。

そんな了以が、水運事業に目を向けたのは慶長九年(1604年)のこと。
京都・大堰川(おおいがわ・桂川の上流)の工事に着手しました。

もちろん、これも幕府の許可を得てのことです。

「川にたくさん船を通せるようになれば、山城と丹後の行き来もしやすくなるしおk!」
という理由だったようで。

時代劇のせいか、江戸幕府は地方や庶民への締め付けがキツイようなイメージもありますが、経済が良くならないと世の中が回らない――というわけで辛く当たるだけではありません。

豪雨で濁流ながれる桂川

 

現場で自ら陣頭指揮! 石運びにも参加した

了以は自ら現場で指導するだけでなく、自分でも石運びに参加していたと伝わります。

水中の石は鉄棒を用いて動かしたり。
難しいものは火薬で爆砕したり。
結構お金がかかっているんですね。

その甲斐あって大堰川工事は無事に成功、今日でも京都嵐山には了以の像が立つ偉業と称えられました(TOPの画像です)。
実際、このルートを通じて穀物や塩、鉄、石材などが運ばれ、物流が活発化したのです。

この成功に自信を得た了以は、翌年には富士川の工事にも着手。
首尾よく成功を収めています。
が、その次に挑戦した天竜川は、流れが急すぎて失敗に終わりました。まぁ、そんなこともあるよね(´・ω・`)

「日本三大急流」の一つは富士川のほうなんですけれども、天竜川も飛鳥時代から水害が多いことで知られているので、了以の時代には水量が多かったのかもしれません。
同川の工事はもう少し後、18世紀になってから度々行われるようになります。

また、富士川のほうも了以の行った工事より、半世紀ほど後に別の人が行った工事のほうがよく知られています。
そのためか、やはり了以といえば「京都の水運工事をした人」というイメージが強いようですね。

その辺は、また機会があればじっくり取り上げることにいたしましょう。
了以やこの地域に限らず、江戸時代になって戦乱がなくなったことによって、「地域の整備」という面に目が向きやすくなったんでしょうね。

 

大坂の陣キッカケでもある方広寺では

京都に戻った了以が次に手を付けたのは、方広寺大仏殿の再建でした。
大坂の役(大坂夏の陣・冬の陣)のキッカケになったとされる「方広寺鐘銘事件」のお寺です。

方広寺の釣り鐘

実はこのお寺、その前の慶長七年(1602年)に大仏を鋳造している途中、火災に遭っていました。

しかも、よりにもよって、その大仏を作るために流し込んでいた銅が原因だったというのですから、さあ大変。
火元になってしまった大仏様はもちろんオシャカになり、秀吉が生前、全国から巨木を集めて作らせていた大仏殿まで、ものの見事に焼けてしまっています。

慶長十三年(1608年)から再建が始まり、もともとデカイものを作る予定だったこと、材料の集め直しから始まることなどから、工事のペースは早いとはいえなかったようです。

了以はこれに協力しようと、もう一度、一肌脱ぎました。
大仏殿再建に必要な木材輸送のため、鴨川を利用しようと考えたのです。

京の町中を通る鴨川については、大規模な掘削工事はできません。
そこで、水深数十センチでも使える喫水の低い船が使えるような運河を作ることにしました。

慶長十六年(1611年)。
了以は、鴨川に並行して走る運河の建設計画に取り掛かり、幕府へ届け出て無事に許可を得ました。

 

江戸時代の京都~大坂物流を担った高瀬川

運河のルートは、二条から鴨川の水を入れ、伏見までを繋ごうというものでした。

水の入り口は、現代だと京都市営地下鉄東西線の京都市役所前駅から、徒歩7~8分の地点。
そこからずっと南へ下り、途中からは”東”高瀬川や”新”高瀬川と名を変え、京阪本線・京阪宇治線中書島駅の西で宇治川と合流します。

了以の時代には、全体をまとめて「高瀬川」と呼んでいたようですね。

高瀬川は、江戸時代を通して活発に使われました。
さすがに明治時代からは使用量が減り、大正時代には廃止されましたが、「200年近く使われた交通手段」と考えるとすごい話ですよね。

この運河によって、二条~伏見間の物流が活発となり、さらに淀川を経由して大坂にも繋がり、近畿圏の経済発展につながりました。

見方によっては、江戸周辺に偏ってもおかしくなかった江戸時代の経済が、この水路によってバランスを保つことができたともいえます。
戦国時代にダメージを受けまくった京都周辺をそのまま放置しておくと、皇室の生活まで脅かされてしまいますからね。

しかも、用地の買収などに自身の財産(七万五千両)も投じたというのですから、恐れ多いというほかありません。

 

竣工を見届け1614年に逝去した

高瀬川の工事時点で、了以はすでに60代にさしかかっていました。

慶長十八年(1613年)からは息子・角倉素庵に事業を継承させ、一線を引いています。

翌年には高瀬川の竣工を見届け、慶長十九年(1614年)に逝去。
大坂の陣の年という、運命的なタイミングであり、豊臣家にも縁が深かった了以が、その最期を見るまえに世を去ることができたのは幸運かもしれません。

了以の子孫たちも順調に家業を受け継ぎ、幕末まで了以の残した高瀬川や大堰川を管理しながら続きました。

現代では船運のウエイトは減りました。
が、高瀬川では夏期に川床が設けられたりして、新たな役割を持つようになっています。

在りし日の船運を思い浮かべながら、料理や景色を楽しむのも一興ですね。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「角倉了以」

 

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